さらし

 

 俺とカフカの話をしよう。彼について語るべきことは多々あるが、その中でも俺たちにとって特別な夜のことだ。2XXX年、ある惑星に長期停留している宇宙船からこの話は始まる。
 
 横で本を読んでいたカフカが、ふいにページをたぐる手を止めて船の窓に目をやった。俺にはただの暗闇にしか見えない夜の空を、焦点を合わせるために目を細めて観察している。カフカのまっすぐな細い首にはのど仏は見えない。最低限の食べ物しか摂取しない彼の体は全体的に骨ばっているが、細部に子供の持つやわらかさを残している。
「何が見える?」
 カフカはすぐには答えなかった。いつものことなので俺は辛抱強く待つ。慣れるまでは人の話を聞かない奴だと思い込んでいたが、彼は的確な言葉を探すのに時間がかかるタイプだった。今では吟味された言葉の重みがわかる。誰よりも深く思考する彼は、船の中でも信頼されていた。
「オーロラが発生するかもしれない」
 そう言われて窓の外を眺めたが、俺の目はまだ光を捉えられない。それも道理だ、カフカが認識できる光の範囲は俺の倍はあるのだから。俺は地球生まれの地球育ちで、彼は小さな辺境星生まれのステーション育ちだった。

 カフカが見る極彩色の世界を知りたいと思い、出会って間もない頃に本人に尋ねたことがあった。うまい表現が見つからなかったのか、1日中考え込ませることになったので、当時俺は二度と聞くまいと胸に誓った。難しいことを聞いて悪かったと謝ると、彼はポーカーフェイスを崩さずに、すまないなと言った。
 その1週間後、突然カフカが俺の個室にやってきた。用がある時は事前に何らかの断りをいれてくるのが常だったので、俺は驚いた。彼は1冊の画集を抱えていた。それはずいぶん昔の地球の画家のものだった。船員の一人が実家の書斎から持ってきた大型の本で、四隅はすりきれ、厚手の紙を綴じる糸もほつれていた。カフカは生まれたての赤子を扱うかのような丁寧な手つきでページをめくり、ひとつの絵を指差した。熱帯の地の青い樹、黄色い砂、赤い犬、そして白い服を着た女。鮮明な対比の配色はまぶしいほどだった。
 ――これに似ていると思う。
 カフカはいつもより早い口調で言った。その瞬間は意味がわからなかった。何が何に似ているって? 戸惑う俺をよそに、カフカは更に別の絵を指して、日が沈みきった頃はこのように見える、と言った。それは先ほどの絵より暗い色調で描かれていた。青暗い景色の中で、人の肌が明るく浮かび上がっている。俺はようやく気付いた。1週間も前の質問を、それも一方的に痺れを切らしてもういいと断りを入れた質問を、カフカはずっと気にかけていたのだ。彼の誠実と純粋に撃たれて、俺はしばし言葉を失った。隣に腰掛けて俺の反応をじっと待っているカフカを見たら、あらゆる波長の光を映す彼の瞳に部屋の照明が入り込んで、小さな星を作っていた。
 ――きれいなもんだな。
 俺の声は擦れていたと思う。カフカは「お前に教えたかったんだ」と言って、はにかむように微笑んだ。形の良い唇の端からのぞく小さな八重歯を愛しいと感じたのは、その時が初めてだった。
 それ以来、俺とカフカの距離はどんどん近付いていった。俺はカフカの少ない言葉からあらゆる感情を読み取ろうとしたし、彼もそれに安心して様々なことを話すようになった。カフカの星は男女比が4対1で、ヘテロの夫婦よりホモの夫婦が多いこと。そのため人口胎盤の技術が進み、異なる星からも子供を願う同性の夫婦や恋人が訪問すること。地球の人間とは加齢速度が違うため、ステーションでは色々と誤解を生んで大変な思いをしたこと。俺はカフカの理知に溢れた端的な話し方が好きだった。決して意図的に笑わせようとしているわけではないのだが、彼の話はいつも俺を幸福にした。会話に多少のタイムラグが生まれることもあったが、それさえ心地いい距離感を作る要因になった。
 ひとつだけ引っかかったのは、カフカの身体的な幼さだった。実年齢は俺と一つしか変わらないのだが、外見的には彼は15、16くらいにしか見えなかった。加齢速度が遅いためだ。ただでさえ性的に無理が生まれてしまう関係であったし、十も離れた容姿を持つカフカに手を出すことはひどくやましいことのように思われた。彼のきめの細かい白い肌は十分魅力的だったが、彼の体が成熟するまで待つのだと自分に言い聞かせ、俺は耐えた。
 時には食事の時間にカフカの皿にポテトのペーストを盛ってやり、もっと食べて早く大きくなれと発破をかけることもあった。結局カフカは残してしまい、ほとんど俺が食べるのだが、そんな時彼は、塩の効いた白いペーストを俺が平らげるまで身じろぎもせずに待っているのだった。
 
 俺は腰掛けていたベッドから降り、個室のコンピュータから船外の観測データにアクセスした。プラズマ粒子の数値を確認すると、確かにわずかな変動が見られた。データはまだ誤差の範囲内だが、カフカの予測が外れたことはない。
「どのくらいの規模かわかるか?」
 カフカは窓に頬杖を付いて空中を見つめている。俺は黙って過去にオーロラが発生した際の詳細なデータを眺めることにする。この星では数年に一度、巨大なオーロラが観測されることがあるのだ。もし今夜それに出会えるとしたら、大きな収穫になる。
「はっきりとはわからないが、おそらくそう大きくはない」
 20年前までデータを遡った頃、カフカが答えた。
 小規模のものならすでにデータをとってある。本腰を入れて観察する必要はないから、コンピュータに任せればいい。その間、俺たちはプライベートタイムを満喫できる。
「カフカ、地表に出てみるか」
 カフカが間を空けずに頷いたので、喜んでいることがわかった。机のボックスから酸素シールを取り出して、喉元に2枚、胸に2枚をそれぞれ貼り付けた。カフカに渡そうとすると、彼は手を伸ばす代わりに顎を上げてのどを露わにした。カフカが人を頼るような仕草をするのは珍しかった。親指で擦りつけるようにして丸いシールを貼りつけてやったら、彼の体がかすかに震えた。
「冷たかったか」
 何気なく聞いたのに、カフカは黙ってしまった。不自然な沈黙を訝しく思ったが、俺はすぐにその意味を理解した。残りのシールを彼の膝に置いて、扉の方に向かった。カフカは俯いたままだ。
「飲み物を用意してくる。ガレージで落ち合おう。それ少し温めてから貼れよ、両手で挟んでおけばすぐだ」
 返事を待たずに部屋を出て、足早に歩いた。食堂に入り、奥の調理スペースに向かう。ボタンを押して、水道管から流れ出てきた冷水で顔を洗った。そのまま手ですくって一口飲む。深く息を吐いて、再度顔を洗った。水は肌に冷たく染みたが、そうでもしないと血が上ってしまいそうだった。心臓がうるさく音を立てていて、自分の鼓動しか聞こえない。あの一言は自然に言えただろうか、気付かないふりをしたまま全部やってやればよかっただろうか、一人でいるカフカは傷ついていないだろうか。動揺して思考が整理できず、ばらばらの事柄だけが浮かんでは消えた。
 今まで俺は、カフカは実年齢に見合った精神構造をしていると思っていた。冷静さは人並み以上だし、少々わかりにくいが他者への思いやりも持っている。外見と内面はアンバランスだが、内面だけを見れば船内の誰よりバランスが取れているように見えた。
 でも、と俺はポットに湯をそそぎながら考える。混乱している時は体を動かしたほうが落ち着くものだ。この星の気温は氷点下だから、防寒服を着たとしてもずいぶん冷える。数時間に及ぶオーロラの変化を見るなら、温かい飲み物があった方がいい。そのことを俺に教えたのはカフカだった。
 ポットをスティックで撹拌し、一口飲んでみる。インスタントコーヒーをスプーン1杯分追加して、もう一度よく混ぜてから蓋をした。もしもカフカに、25歳の部分も、15歳の部分もあるのだとしたら。俺は今までずっと勘違いをしてきたことになる。
 
 ガレージには既にカフカが待機していた。カフカが先にバイクの電源も入れていたので、後は出入口を開放して出発するだけだった。
「運転していいか」
 カフカは何事もなかったような顔でヘルメットとゴーグルを渡してきた。声音もいつも通りだったので、俺は拍子抜けした。ただの考えすぎなのか、カフカの切り替えが飛びぬけて早いのか。前者だったら笑って済むけれど、きっと後者だろう。カフカの黙り方には多くのバリエーションがあるが、あんなパターンは初めてだった。しかしあまりにカフカの振る舞いが自然なので、俺はオーロラを見ながらゆっくり話せばいいという気分になっていた。
「安全運転してくれよ」
 ハンドルを握り、計器をチェックするカフカの後ろで言うと、カフカは小さくうなずいた。バイクが好きなのかオーロラが楽しみなのかはわからないが、機嫌がいい。
 そのことに安堵した途端、予期しない圧力がかかってきた。カフカが急に発進したのだ。俺はたまらず彼の腰にしがみついた。砂煙が舞い、車輪に巻き込まれた砂が体中に当たって、ちりちりとした痛みが走る。
「カフカ!」
 加速、加速、圧倒的な加速。振り落とされると本気で思った。ものすごい速さで周囲の景色が流れていくと共に、恐怖のあまり視界がぼやけてきた。風が刃物のように頬をえぐった。
「カフカ!」
 大声で名前を呼ぶが、カフカは答えない。握りこぶしほどの大きさの石の上に乗り上げ、数秒間体が宙を浮いた。俺は自分の体をカフカに密着させ、これ以上ないほどきつく抱きしめた。
「そうだ」
 カフカが怒鳴った。カフカが怒鳴るというありえない事態を前にしても、命の危機を感じていた俺はカフカを抱く腕をゆるめなかった。
「しっかりつかまっていろ!」
 小さな八重歯のカフカ、食が細いカフカ、闇を見上げるカフカ、いつも何かを考えているカフカ。俺のカフカは、更にバイクのスピードを上げた。
 
 
 人間とは環境に慣れていくもので、恐慌を来たして涙目になっていた俺も、数分後にはカフカのスピードにいくらか対応できるようになった。カフカの後ろから首を伸ばしてバイクの計器をのぞくと、予想通り速度を表す針は右下に振り切れていた。その隣の温度を示す針はマイナス15度を指している。
 ゴーグルをしているため目は無事だが、直接外気に触れている耳は感覚が鈍くなっているし、鼻の奥の粘膜が凍りつきそうで呼吸が浅くなった。酸素シールを使用すれば鼻や口で呼吸する必要はないのだが、無意識に行っている胸郭運動をコントロールすることは意外に難しいのだ。船に戻ったら、鼻まで覆うタイプのゴーグルの購入を提案しよう。
 俺はカフカの指示通り、前のめりになって彼に貼り付いていた。おかげでカフカと隙間なく重なっている部分には一切寒さを感じなかった。俺は助かるが、カフカ自身は真正面から風に吹きさらされている状態だ。旧式の水素バイクの派手な走行音に負けないように、彼の耳元に顔を寄せて寒いだろうと問うと、否定の意味で首を横に振られた。顔を近付けていたせいでカフカの細い髪が俺の唇を掠めた。彼が前を向いたまま何か言ったが、爆音にかき消されて聞き取ることはできなかった。
 俺は言語コミュニケーションを諦めて、バイクの動きに合わせて重心を移動し、カフカの運転を補助することに集中した。バイクが跳ねる時はカフカの体に回した腕に力を入れる。岩場を避けて曲がる場合は、遠心力に逆らわず体を倒した。そのうち砂地にわずかに育っている植物や、観測地点に立てられたフラッグが目に入るようになった。南極に近づいているのだ。簡素なつくりの基地が見えてくると、カフカはやっと減速した。惑星交通法に準じた運転は、適正速度であるはずなのにやけに遅く感じられた。

 二人分の船員コードを打ち込み、俺たちは基地に入った。船の停留地に近い位置にあるため、遠隔地の基地とは設備が異なり、内部には数台のコンピュータとソファ、救急医療器具、バスルームくらいしかない。
 カフカは防寒具を脱いでソファに座った。俺はポットの飲み口を開けて彼に差し出した。カフカは素直にそれを口にした。
「苦いか」
 カフカはもう一口ゆっくりと味わい、コーヒーを飲み下した。首に貼られた酸素シールが上下するのが見えて、俺は個室での出来事を思い出した。
「ちょうど良い」
 俺は横のソファに腰を下ろし、カフカが持っていたポットを受け取った。熱さをこらえて飲んだら、凍えた体が内側から温まっていくのがわかった。
「カフェをひらけるな」
 カフカはくだらない自画自賛をまじめに受け取って、経営者になりたいのかと尋ねてきた。その頭がヘルメットと風のせいで面白いほど乱れていたので、軽く手で撫で付けてやった。またシールが視野の端に映る。話し出すタイミングを考えた。今はまだ早いだろう。
「俺は経営には向いていないから、船員で良いんだ」
 カフカは真意を量りかねているようだった。冗談だと伝えるために「カフカ はドライバーになれるな」と付け加えると、彼は目で笑った。無口なスピード狂への仕返しのつもりで、その鼻を軽くつまんだ。
「まえのふねではうんてんさせてもらえなかった」
 カフカは苦しげな様子も見せず、鼻声で喋りだした。
「賢明な判断だ」
 俺だって事前に知っていれば、無理にでも彼を後部座席に乗せただろう。あれを安全運転と呼ぶのなら、オルクスの巨大テーマパークにある360度回転のジェットコースターだって安全運転だ。オート滑走だからあちらの方がまだましかもしれない。
「ちがう。おれがぎむきょういくかていないのこどもにみえたからだ」
「過程内の者は適正速度なんて知らないもんな」
 たとえ不当な理由からであっても、前の船の連中は結果的には間違っていない。俺はカフカの反論をおざなりに聞いていた。
「あれがおれがかんじているせかいだ」
 カフカは表情を変えずに、彼の主張を邪魔する俺の腕をつかんだ。何か重要な話が始まる。そう判断し、俺は彼の鼻を離した。
 「ステーションでも船でも、俺の基準では考えられない速さで人や物事が進んでいく。自分なりに付いていこうと努力しているが、目を回しそうになる。皆に置きざりにされそうな気がすることもある」
 カフカは自らの言葉を確認するように、一文ずつ区切って言った。感情を匂わさない淡々とした口ぶりが、逆に彼の孤独を浮かび上がらせた。
 俺は深く息を吐いた。あぁ、バイクの上で震えていたのは俺だけではなかったのだ。カフカもまたスピードに怯え、移り変わる風景に戸惑って必死にしがみついている一人だった。
「俺はカフカを待っているつもりだ」
 それは画集の一件から、彼の無垢な魂に報いたいと行動してきた俺の本心だった。
「そうだ。お前がいるからここで生きていける」
 カフカは何の迷いもなく言い放った。
 体が甘く痺れた。とんでもないことを言われてしまった。俺は二の句が継げなかった。
 カフカの怒声が蘇る。――しっかりつかまっていろ! よく響く良い声だった。折れそうな人間を鼓舞し、正しい方向に導く声だ。彼と重なっていれば俺は前を向いていられた。カフカも同じだと、彼は言ったのだ。
「カフカ……」
 今まで誰よりカフカを理解していると思っていた。彼を船のメンバーに馴染ませるのも、彼の本意を汲んで対話するのも、自分の役割だと自負してきた。しかし彼のもどかしさや不安に、どこまで真に寄り添ってやれただろう。彼の落ち着いた物腰だけを見て、中に隠したものに気付けなかった。事実、カフカは彼一人で悩み、俺は自分一人で欲と戦っていた。今やっと、こんなにも繊細で情熱的な15歳のカフカと話すことができた。情けない俺を、それでも必要だと言ってくれた。
 その体に触れたいと強く願った瞬間、間が悪く彼が立ち上がった。
「そろそろだ」

 一見ただの休憩所のようなこの基地だが、最新の基地にも負けないすばらしい仕掛けがある。カフカが扉の横にある操作パネルをいじると、合成プラスチックで出来た長方形の天井に対角線が現れ、そのまま四つの二等辺三角形に割れた。この1枚目の天井は、それぞれの三角形の底辺にあたる部分から巻き込まれ、収納されていく。特殊ガラス製の2枚目の天井がむき出しになった。決して曇らないガラスから、宇宙が透けて見えた。
 俺は戻ってきたカフカを手で制し、それまでカフカが座っていたソファの背を一度押して、逆側に倒した。今はあまり見かけない古典的なソファベッドだ。
「こっちの方が見やすいだろう」
 ソファがベッドに変わったのを見て、カフカは固まった。性的な躊躇ではなく、未知のものに対する好奇心からだ。
「……知らなかった」
 2枚天井とは比べ物にならない単純なからくりが、逆に彼を惹きつけた。よほど興味を持ったのか、カフカはベッドの端をつまんで捲りあげたり、スプリングの弾性を確かめたりしていた。
 俺は仰向けに転がって空を見た。気温が低くガスも出ていないから、弱い光の星もクリアに見えた。カフカならもっと多くの星を見つけるだろう。
 彼のソファベッドに関する考察が済むまでの間、俺は頭の中で星座の線を引いて楽しんだ。カメレオン座のβ星がきらめいて、舌を出した愛嬌ある爬虫類にウインクされた気がした。
 
 つる座、くじゃく座、みずへび座にとびうお座、ケンタウルス、インディアン。今夜は俺にも6等級の星まで確認できる。
「どこを見ている」
 膝を立てたまま寝そべったカフカが、俺の視線の先を探った。
「南十字星の辺りだ」
 俺は人差し指を立てて、胸の上で十字を切って見せた。
「カフカ、アクルックスが見えるか」
 アクルックスは1等星なのだが、地球生まれの人間にとって一つに見える光は、実際には三つの星が重なってできたものだ。その三つの星々を判別できるかという意味を含めて質問した。
 彼からの返事はなかった。横を向いて様子をうかがうと、カフカは目を細めて上空を見つめていた。
「もう発光しているのか」
 俺は片手を支えにして体勢を変えた。せめてカフカの瞳の中にオーロラが映りこめばと思ったが、彼の目は遠く澄むばかりだった。
「ディフューズタイプだ。よく変化する」
 光度が揺らぐと焦点がずれるのか、カフカは目元をこすり、何度か瞬きをくりかえした。カフカの真似をして両目をまぶたの上から揉んでみた。それでもガラス越しに見えるのは満天の星空だけだ。同じ空の下にいても、俺たちが見るものは違う。
「俺にも見えるだろうか」
 少し考えた後、カフカはじきに見えると静かに呟いた。
 しばらくすると、カフカの言葉どおり、ぼんやりとした光のもやが見えてきた。赤から青に、青から緑に、刻一刻と鮮やかに移り変わっていく。時に強く光り、かと思えば今にも消えそうになる。これほど明暗のサイクルが早いタイプは久しぶりだった。
「きれいだ」
「ああ」
 カフカは目のふちを指でなぞった。泣いているのかと思い一瞬焦ったが、それは目が慣れない場合に見せる彼の癖だった。
「生まれ変わっていくようだ」
 カフカが言った。ある日生まれて、眩しく輝き、徐々に老いていって、いつか死んでまた生まれかわる。オーロラの表現としては詩的だが、彼らしい美しい例えだと感じた。

 俺は隣り合っているカフカの手をたぐりよせ、柔らかく握った。カフカがかすかな力で握り返し、俺の手を包み込んだ。二人ともオーロラからは目を離していなかったが、ごく自然な動作だった。薄暗い臨時照明の中、目を合わせないままでも、互いが何をしようとしているのかが伝わってくるのだった。
 カフカが俺の手を口元に運び、つないだ手を開かせて、掌の部分にキスをした。拙いキスだった。田舎の娘のような純朴さがあった。俺はたまらなかった。彼の指の間に自分の指を絡ませ、つなぎなおした。かたく握った手を引き寄せ、音を立てて薬指に口付ける。少しずつ場所を変え、何度もしつこくくり返すと、カフカがこちらを向いた。
「子供みたいな事をする」
 少年のままの顔でそんなことを言うので、可笑しかった。
「男はいつまでたっても子供なんだ」
 言い返した俺は、カフカの手の甲を甘噛みした。カフカは反射的に手をのけた。怒るでも泣くでもなく、彼はもう一度その手を戻して、静かに俺の頬に触れた。
「こうして触ってみたかった」
 頬から始まり、まぶた、眉、鼻筋、あごの輪郭、さまざまなパーツの形を覚えるように、カフカの指が顔の上を滑っていった。むず痒かったが、あんまり真剣な手つきだったので我慢することにした。
「俺だって触りたかった」
 俺はカフカのあどけない頬を掌に包んだ。親指のはらで鼻先をくすぐると、カフカが八重歯をこぼして笑った。
「俺も触られたかった。……バベルに」
 名前を呼ばれて目が眩んだ。俺はカフカの肩を抱いて唇を押し付けた。そのままカフカの下唇を舐めた。カフカが俺の上唇を吸った。異様な感覚が背筋を抜けていった。角度を変えて幾度も唇を重ねた。俺がカフカの髪に指を通して引き寄せれば、カフカは俺の服をつかんで体ごと近付けようとした。
 舌を口内に差し入れた時、カフカの体が跳ねた。嫌がるかと思って離れたら、ぶつかるように口付けられた。ゆるく閉じられた唇を割って中に入ると、今度は受け入れられた。戸惑う舌を見つける。またカフカが震えた。しかし俺はもう離さなかった。カフカもそれを望んでいると思った。カフカの粘膜は熱く、柔らかかった。俺は何度もカフカの舌を追い詰め、彼はそれに応えた。俺たちは飽きるほど唇を貪りあった。
 
「酸素が足りなくなりそうだ」
 カフカが深く息を吐いた。唇が濡れていた。
「シールは?」
 俺はカフカの首筋を軽く押さえた。そのまま酸素シールと肌の境界を辿ると、カフカが身を竦ませる。
「2枚貼っている」
「船までもつのか」
 確かにカフカが必要とする酸素量は平均を大きく下回っていたが、いくらなんでも見積もりが甘い気がした。
「何事もなければ」
 この状況でもカフカは自分のリズムを崩さない。彼自身は意図しなかったかもしれないが、俺は絶妙の牽制を受けることになった。
「それは残念だ」
 俺はシールの上からカフカの首に軽いキスをした。カフカはとくに抵抗することもなく、腕をくぐらせて俺の頭を抱いた。
「もうすぐオーロラが消える」
 耳がカフカの体に触れているため、彼の声が頭の奥でやけに響いた。俺はガラスの天井を見た。オーロラが一際明るく赤く輝いて、それから次第に暗くなっていった。空には果てしない銀河が残された。
「また生まれ変わる」
 俺は先ほどのカフカの比喩を思い出して、そう言った。
 カフカは頷いた。俺を抱いたまま、彼の網膜に映る光を追っていた。
「何度も生まれ変わる」
 カフカが俺の額に頬をすり寄せた。俺は彼の心音に耳を澄ました。この二人の空間を全て記憶したいと思った。体に刻み付けてしまいたかった。
 

 帰りはやはり俺が運転することにした。カフカは未練があるらしかったが、今回ばかりは俺も譲らなかった。彼を後ろに乗せて、ゆっくりと走り出した。適正速度の半分の速さなら、走行音が目立たない。
「今度は流星群を見に行かないか」
 来月から立て続けに三つの流星群が発生することが予想されていたので、俺はカフカに持ちかけた。
「けれども、正規の観測データが必要だろう」
「定常群なら問題ないさ」
 カフカの表情はわからないが、彼がこの手の誘いを断るはずはなかった。
「D2基地が良い」
 カフカはオーケーを出す代わりに、少し離れた基地の名前を口にした。
「あそこのテレスコープを使えば、お前にもアクルックスが三つに見える」
「楽しみだな。体中にシールを貼り付けていこう」
 何が起こってもいいように、とも言った。取るに足らない質問を、彼が聞き流していなかったことが妙に嬉しい。
「バベルが貼ってくれ。背中までは手が届かない」
 カフカは上機嫌だ。つられて口の端が上がるのを止められなかった。カフカの星で受け継がれている、特別な時にしか相手の名前を呼ばないという文化を、俺は彼から聞いて知っていた。「お前」、「おい」、あるいは無言で肩を叩かれて呼ばれてきたから、自分の名前がやけに耳に甘く、くすぐったく聞こえる。なんて愛しい俺のカフカ!
「バベル?」
 後ろでカフカが首を傾げている姿が目に浮かんだ。彼が返事をしないことは度々あっても、俺が彼を無視することは滅多にない。
「ああ、わかったよ。1枚ずつキスしながら貼ってやる」
 カフカはもう文句も言わず、俺の背に抱きついた。背中からカフカの体温が伝わってくる。夜明け前の気温はマイナス20度になっていたが、不思議と寒いとは思わなかった。胸の底がいつまでも温かかった。それはカフカと分け合った熱だった。
 夜の惑星を、砂を舞い上げながら1台の水素バイクが走っていく。それに乗っているのは定員通りの2名だが、前後のライトが地表に照らしだす影は、今や一つになっている。
 
 俺とカフカの話は、今日はこれまで。長い人生の中のたった一夜のことではあるが、少しでも俺たちが得たものを感じてもらえたら嬉しい。それでは、またいつの日か。さようなら。